アニメにおけるヒロインの死と配られるダッチワイフ。

ヲタ作品のヒロインが、ある種のアイドルであって、監督によるヲタ批判はアイドルに触れるなという、アイドル商品の管理の一環という解釈は面白いと思った。


富野作品においてララァはどうだか分からないけど、確かに宮崎作品におけるナウシカとかシータはまさにそうだな、っと思える。そして「千と千尋」においてはヒロインは存在せず、これまでのヒロイン役を担ったのがハクだったのを思うと、やっぱり「千と千尋」は女の子向けなんだな、っと思える。
押井作品には、そのようなヒロインの存在が無い気がする。「うる星」は原作による縛りが強いので、ラムちゃんはちょっと違う気がするし。「攻殻機動隊」にしても、押井守が監督するととにかく色気がなくなるわけで。同じ押井脚本*1でも「人狼」がやたら色気のある作品だったのが、監督が違うとこうも違うものかと驚いた記憶がある。*2


では、庵野作品において、ナディアや綾波レイ、アスカがそういったヒロインに相当するのか?
ナディアはともかく、綾波やアスカはもはや自分の中では陵辱されきった同人誌の中でのイメージしかなく、上記の記事の言葉を借りれば、消費されるためのダッチワイフに他ならない気がするのだが。それは自分がもはや汚れきっているから、だろうか? しかし、エヴァほど二次創作市場でエ■同人誌が流通し、原作以上に綾波やアスカの二次創作におけるイメージが確立している例も珍しいと思う。*3そしてそれは制作者サイドも狙っていたハズだし、同人での盛り上がりがなければ、あれだけのブームにもならなかったように思う。*4エヴァをパチンコで知った人は例外として、コミケに足を運ぶようなヲタクであれば、綾波やアスカに神聖なヒロインとしての側面以外にも、ヲタクに配られたダッチワイフとしての側面があることを認識しているだろう。


監督自身によるヲタ批判を思い起こせば、庵野監督自身はたとえそれを望んでいなかったにしても、結果としてヒロインをダッチワイフとして視聴者であるヲタクにあまねく配ってしまったことが、エヴァが画期的な点だったのではないか。そしてエヴァ以降、特に深夜時間枠において、量産されてきたいわゆる萌えアニメは、いわばダッチワイフを配ることを目的としたものに思える。いまやアニメにおける、神聖なヒロインはもはや存在せず、消費されるべき対象としてのダッチワイフのみ。ヲタ同士は皆兄弟。もしかすると、先の押井守の批判はそれを憂えたものではないかと、ちょっと思った。

*1:あ。劇場版「攻殻機動隊」の脚本は伊藤和典でしたね。押井守が脚本なのは「イノセンス」ですな。

*2:このことは押井守自身も指摘していた。

*3:同人どころか、一般の商業作品においても、登場人物が綾波とアスカにそっくりなエ■ゲーまで出る始末。結局、GAINAXからクレームが入って、髪の色が変わったみたいだけど。

*4:同時にそれはブームになったから二次創作される、っとゆー関係にもあるのだが。それでも、エヴァのブームについては二次創作の影響は大きいと思う。