清水草一と岡田斗司夫の本の書評。

港区ではベンツがカローラの6倍売れている―データで語る格差社会 (扶桑社新書 26)

港区ではベンツがカローラの6倍売れている―データで語る格差社会 (扶桑社新書 26)

「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書)

「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書)

っとゆーわけで、Amazonで買った本をだいたい読んでみたので、その書評っというか、この二冊を読んでみて思ったこと。


まず、「港区ではベンツがカローラの6倍売れている」の帯に書いてある、


ぶっちゃけた話、日本は(正確には日本の大都市部では)、犯罪を除けば、
なにやってもいい感じの社会になった。
だけども。「なにやってもいい感じ」というのは、少し抽象的なので、もっと具体的に書けば、「とがめられない」ということだと思う。あるいは、「文句を言われない」とでも言おうか。*1
つまり、本書の中の具体例を挙げれば、ベンツに乗ろうがフェラーリに乗ろうが、軽自動車に乗ろうが、いっぱい稼いでアメックスのセンチュリオンカードで5億円のジェット機を決済しようが、500万円借りて自己破産しようが、吉原の高級ソープで働こうが、熊谷の格安ピンサロで働こうが、軽井沢に別荘を買おうが、あいりん地区で路上生活をしようが、ぜんぜんおっけー! どんどんやってよし!! ということである。
いや、自己破産は他人に迷惑をかけるから駄目かな。でもまあ、基本的に犯罪以外は何やってももはやダレも文句いわないよ、ってことである。ここで、そうはいっても金が無ければ別荘もジェット機も買えないじゃん、っと思われるだろうが、本書の冒頭部分で年収200万円台のフェラーリオーナーの話が出てくる。つまりはローンさえ通れば、絶対的な収入が少なくとも生活費の大半を趣味に費やすような、そんな極端な生活もできるよ、ってことである。
で、この本では、基本的に現状ばかりをルポルタージュ風に列挙しているだけなので、なんでそうなったかと言う背景をもう一冊の「世界征服は可能か?」(以下、「世界征服〜」)から、少し。


「世界征服〜」では、後半四分の一で「階級社会」と「階層社会」について触れてある。「階級社会」とは、社会の階級ごとにそれぞれの独立した文化があって、交流がない状態を言い、「階層社会」とは人々に経済格差が階層として存在する社会のこと。「世界征服〜」で象徴的に述べてあるのは、


たとえばいま、日本で超金持ちと超貧乏人の差は何かというと、家にあるテレビの差だけです。
超金持ちの家には大型プラズマディスプレイがあります。超貧乏人には小型テレビしかありません。
という文章。つまり、たとえテレビの大きさは違ってもテレビに映る番組の内容は同じ、という話。
ここでテレビの大きさの違いが「階層社会」を象徴していて、番組の内容が同一、という点が「階級社会」の消滅を象徴しているのだった。金持ちと貧乏人で見てる番組に違いは無いので、いまやもはや「階級社会」は存在しない、ということ(の象徴)。
で、この二冊を読んで自分が強く感じるのは、「階層社会」って別に「下の階層に行くほど不幸な社会」ではない、と言うこと。いわゆる「勝ち組」「負け組」という言葉に象徴されるような、「勝ち組」=ハッピー、「負け組」=不幸、な図式というのは、むしろ本人の気の持ちように大きく左右されるんだなってこと。たぶん、軽井沢に別荘を持っていても自分が不幸だと思っている人もいるし、路上生活をしてても十分にハッピーな人はいる。それは当たり前のコトなんだけど、この二冊は、その当たり前の事実を客観的に浮き彫りにしてくれるな、と思った。


もはやこの国には「階級社会」は存在せず、あるのは「経済格差」だけ。そこでどの階層に所属してどんなライフスタイルを採るかは本人の自由。頑張ってもいいし、頑張らなくてもよい。それどころか、かなり頑張らなくても何とか生きてはいける。それも本人の気持ち次第では十分ハッピーに。犯罪を起こさない限りは何やってもよし! なのだから。











...っというわけで、ワシは当分働かないことにしよっと。(ぉぃ

*1:ここで、「大都市部では」っと注釈が付いているのは、地方(本書では具体的に富山県が例として出てくる)ではまだ身内や近所から「とがめられる」ケースがある、ということである。